「なぜ走るのか」「いかに走るのか」。走ることを通して人生を豊かにするランニングとは。

山西哲郎

日本のランニング学者。市民ランナーの指導者。群馬大学名誉教授。東京教育大学大学院体育学研究科修士課程修了。日本体育学会元会長、日本オリエンテーリング協会会長、ランニング学会元会長、日本コンチネンス協会会長。鳥取県出身。

「スポーツ」の起源は「気晴らし」「遊び」

日本に市民ランニングを普及させてきた山西先生。走ることの魅力や本質から、私たちが日常の中で運動習慣を身に着けるために必要なことは何か、お話いただきたいと思います。

まず、ランニングの話をする前に、3つの「life」についてお話しましょう。

「life」には、「生命」「生活」「人生」の3つの意味がありますが、この3つは走ることと、とても密接な関係にあります。

まず、人は生まれて産声をあげる瞬間、最初にする呼吸は「息を吐く」ことに、対して、死ぬ時は息を引き取る、つまり「息を吸う」。はじめに吐いて、吸って終わる。走ることや運動においても、呼吸は、まず、本来は「吐く」ことを強調する。この世に「生命」として生まれた瞬間から、人はそれを理解しているのです。

「息」とは「生きる」こと。安静から、歩き、走りと、運動の強度をあげながら、呼吸を正しく調整していくのです。速く走ったり、激しい運動をするほど呼吸も激しくなる。まさに、息をすることは、私たちの生命を守り、走ることは生きることなり。

スポーツは日常生活の中での運動から、発展した言葉です。「スポーツ」の起源は中世の「気晴らし」や「遊び」に始まり、次第に、今日では、ゲームや競技に発展し、健康や楽しさそして、生きがいにもなって、スポーツは人間の基本的人権として与えられているのです。世界中で、「SPORT FOR ALL」つまり、みんなのスポーツなのです。

日本は「スポーツや運動をする時間と場所が少ない国」と言われていますが、余暇や場所の多い国欧米では、余暇を楽しむことの1ついろいろなスポーツを楽しむ人が多いのです。そして、ヨーロッパの作家、音楽家や詩人などは毎日3時間は歩きながら考えたり、作品を創作し、「自分の書斎は道路」だと言ったほど。イタリアのレオナルド・ダビンチは散歩が大好きで、馬車が危ないと歩道を作ったのです。

走ることは、タイムや順位ばかり気にして走らされるのではなく、「自由」や「自分」を感じ楽しく走るスポーツなのです。

「どうやって走るのか」の前に、「なぜ走るのか」を問いかけるという、自分の人生でも「なぜ生きるのか」「いかに生きるか」を問うことにつながってくるのです。

走る中で重要なのは感じること。感じたことを言葉にすること。

ランニングをはじめようと思うと、服はどうしようとか、タイムを縮めるには、フォームは…と、形ばかりが気になってしまいますが、本質的にまず重要なのは「なぜ走るのか」なのですね。先生にとって走ることの意味や、それを感じたエピソードをお聞かせください。

元々僕は決して足の早い方ではありませんでした。しかし、農家の家に生まれ、海や自然に囲まれ、走り回るのは当たり前のことで、とても楽しかった。「自然の中で走るのは楽しく、気持ちがいい」という原体験。それこそが、先ほど話したスポーツの語源である「気晴らし」や「遊び」としての走ることでした。

フルマラソンを走る時も、沿道からの声援に対して、「応援してくれてありがとう」ではなく「こんな楽しさややりがいのあることをさせてくれてありがとう」という気持ちで走っていました。

僕がよく教えるのは、「1番になった人は、ゴールテープしか見ていない。ビリになった人は色々なことを感じて見ている」ということです。1番速い人が脇目もふらずに走る中、道に咲いた花や、人々の話し声や、季節や自然を感じながら走れたのは、1番遅い人。だから、ビリになった人には「今回一番楽しんだのは君だね」と、声をかける。実際に長くランニングを続けられるのは、遅い人です。競技で速さばかりを競っていた人は、辛くてリタイア後は辞めてしまうことが多い。

それと同じように、電子書籍ばかりではなく紙の書籍の質感や匂いを楽しんだり、新幹線ではなく鈍行で途中下車してみたり…遅い分だけ感じられるドラマやストーリーがあるのです。

大切なのは感じることと、感じたことを言葉にすること。僕は指導の中でも、走った時に感じたことを紙に書かせるようにしています。

走ることは本来性別・年齢を超えて参加できる社会性のあるスポーツ

ー 記録や順位ではなく、走りながら感じることにこそ価値があるのですね。私たちがイメージするランニングやマラソンとは、かなり差があるように感じます。もっとストイックで苦しく、トレーニングを積んだ人だけのものだと思っていました。

本来スポーツとは自由であるべきものですが、そもそも歴史の中で、誰しも自由にスポーツをしたり、大会に出場すること自体が当たり前になったのは、ごく最近のことです。

オリンピックは元々、男性のみ出場が許される大会でしたし、マラソンも女性がはじめて走ったのは1960年代のこと。1967年、当時女性の参加が認められていなかったボストンマラソンにキャサリン・スウィッツァーという女性が、性別を隠して出場しました。女性差別への反対の意を示すためです。後に、マラソン大会では女性参加も認められるようになりました。

その貢献もあり、1970年から急激に市民ランナーが増えてきました。高齢者のランナーも増える中で、かつて私が指導していた東京教育大学(現在の筑波大学)の幡ヶ谷キャンパスのグラウンドを学生の陸上競技大会の休み時間に高齢者に開放したことがありました。学生たちの中には「ノロノロと走って遅いな」と苛立つ者もいたけれど、ゆっくりと走る高齢のランナーの姿に感動したのです。

また、40年以上前から行われているホノルルマラソンは小学6年生から出場ができますが、それは心臓病患者のリハビリで始まった大会で、子どもも、障がい者も高齢者も参加でき、大人に混じって一生懸命走る子どもたちの姿は、当然速くはないけれど、すごい光景だったのを覚えています。

それくらい走るということは本来、性別、年齢を超えて参加できる、社会性のあるスポーツなのです。

自分自身と対話をしながら走ることで感じる楽しさ。見える景色。

ー 痩せたい、綺麗になりたい、健康でいたいと、スポーツをはじめながらも、続かなかったりして悩む人が多いです。私たちがランニングやスポーツをはじめる上で意識すべきことはどんなことでしょうか? 

「痩せなければ、走らなければ」では、束縛や義務や苦痛を二重三重に増やしてしまうだけです。「痩せられない、走れない、続かない」も然り。冒頭でお話しした「なぜ走るのか」の答えが「楽しいから走る」であることと、さらに「いかに走るのか」も自分と対話して感じ取らなくてはなりません。

走りながら、歩いても、止まって良いのです。歩くことからはじめて、歩くスピードでゆっくり走りはじめる。立ち止まって道行く人に話しかけてもよいのです。

よく、ご夫婦でランニングをはじめた方達は、旦那さんよりも奥さんの方が続いたりします。「道に咲いていた花がきれい」とか「あの新しいお店に行ってみたい」とか、「感じながら走る」のは女性の方が向いているのかもしれません。

じっとしていたら感じられない風を感じたり、地面の感触を楽しんだり。あえて雨の中走ると気持ちいいことに気付いたり。暗いうちから走ってだんだん明るくなるのを見るだけで感動したりもします。タイムや距離といった数字ではなく、「あの大きな木のところまで走ろう」と、見えているものを目指して走るのも良いです。

ある絵本作家さんが「砂漠で星空を見たい」と、ゴビ砂漠マラソンに参加したこともありました。東京マラソンでしか見られない景色があったり、その土地で走らなければ感じられないこともたくさんあります。

「ランナーズハイ」という言葉を聞いたことのある方は多いと思いますが、僕は景色が墨絵のように見えたり、京都大学で人類学を研究している久保田競さんという方は周りの人に後光が刺すように見えると言っていました。

そこまで行かなくても、自分自身と対話しながら走ることで感じる気持ち良さや、見える景色がある。それらを感じ取りながら走ることが大切です。

ランニングは遅いあなたが主役なのです。

ー これからランニングをはじめたい方や、この記事を読まれている方にメッセージをお願いいたします。

人間は変化を楽しむ生き物です。変わっていかないと面白くない。「昨日より今日はよかった」とか、走る時も些細なことを手帳に書いて見返してみましょう。走るのが遅い人ほど多くのことを感じて、走るのが苦手な人ほど変わっていきます。

僕のランニングの授業は、手を繋いで走ったり、途中で川に入ったり、道を変えたり、住人と会話したりする「脱線授業」。走る中で感じ取ったことを大切にしてもらいたいからです。

冒頭にお話した3つの「life」、「生命」「生活」「人生」と、走ることとは全て繋がっています。楽しいことも、苦しいことも、自分のペースでしっかりと感じながら日々の生活の気晴らしと、一歩一歩の足跡で人生の道を走りましょう。

ランニングは遅いあなたが主役なのです。

 

文章・写真|小泉優奈note

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